Your voice sample1(本文冒頭)
眠っていると息が苦しくなる。声が響く。
「んっ……、んぅ、んはぁ……っはっ」
二週間前のあの事件以降だ。
オレが眠れなくなってしまったのは――……。
布団を捲り上げて跳ね起こした身体は嫌な汗をびっしょりに掻き、真田はベッドの上で眠りに就けない頭を抱えていた。
いや、眠りに就けないというのは若干語弊があるかもしれない。夜になれば眠気はやってくる。ベッドに入ってこれまで通りに目を瞑れば、その内真っ黒の世界に落ちている。しかし、息苦しくなるのはそれから大体二時間経った頃。形のない影が脳内に渦巻いて、鮮明ではない内容の夢にうなされ目を覚まさせる。
自分の記憶の中に残るのは、もう二度と見たくないという恐怖心のみ。その後は、もう意識が勝手に途絶えてくれるのを待つしかない。自ら目蓋を伏せることは出来ないのだ。
もしかしたらそれは、自分の記憶の奥底で事件の記憶が色濃く残されてしまっているからなのかもしれない。先程から出ているあの事件というのは言わずもがな、中岡一雅による探偵毛利小五郎とサッカーファンを狙った爆撃事件の事だ。犯人の狙いは初めから東都スタジアムのメインモニターを墜落させる、大人数の命を狙った狂気的なものだった。毛利小五郎が寸でのところで犯人の暗号を解き明かし、なんとかその場では軽傷者を出した程度に留まったが、次の狙いこそが厄介であった。
毛利小五郎の元に届けられた次の予告状。内容は聞いたところによると、これもまた暗号となっていたという。暗号が解けなければ、十の会場で同時に行われていたJリーグ最終戦を見に来たサポーターらの命が何万という単位で奪われる。そんな悲劇が各会場で生まれようとしていた。
その内の国立競技場で行われていた東京スピリッツ対ビッグ大阪の試合のキーパーソンともなったのが、比護隆佑のスーパーサブとされている自分だった。比護さんが前半戦で怪我をし、交代でピッチに立った。それまでは良かった。ところが前半が終わったハーフタイムの間、仲間の目には付かないバックステージに呼ばれ告げられた使命。
「頼むぞ、真田」
受けたからには止める気でいた。止められると思っていた。それなのに、いくらぶつけても止まらない、運命の電光掲示板は点滅してくれない。時間は進む一方なのに。
自信はいつしか不安に形を変えた。そんな事も出来ないお前はプロとしてサッカーを続けられる資格はない。と、サポーターの目が恐ろしくなった。だからビッグ大阪のストライカーは比護選手一択だろうと、そう思われている気がしてきていた。
その時だった。
「貴大っ」
歓声に消されて聞こえるはずもない声。それが聞こえた気がして振り向いた先に見えた比護の目は、監督から全てを聞きこの会場内唯一真田に全てを賭け願い、応援するそんな思いが映っていた。
(幻聴でもいい。その目とその声があるだけで、オレは頑張れる気がするんや)
単純やな、と自嘲し零れた真田の笑みは誰が見ていただろうか。
結局動作停止を確認出来なかった時限爆弾の在処は、ホイッスルが鳴っても明らかになる事はなく、その場は無事として幕を閉じ、この事件は溢れんばかりの警察が国立競技場を埋め尽くし調査している様を横目に後にした時点で真田の中でも終わったはずだった。
「はぁー………あかん」
それがこの現状だ。事件からはもう二週間も経つ。それなのに、目を閉じるのが怖い。そんな感情がまだ真田の中に蠢いている。カーテンの隙間から見える空がそろそろ明るくなり始めた頃だ。
またしても眠れなかった夜に、ため息をもう一つ吐いてから掛け布団を大きく捲ってベッドから抜け出した。それからすぐに吐き出した息を大きく吸い込み直し「幸せ逃したらたまらん」と一人呟く。眠れなくとも不屈の精神はまだ健在だ。
最初の一日、二日は公式戦であんなデカい会場のピッチに立ち、興奮が冷め止まないせいかとも思った。ところがこの二週間の内毎日、たとえ疲れて帰って来た日でさえ爆睡出来ないとなれば以上を疑いたくなるだろう。
だからと言ってただ眠れないだけの異常を誰かに相談できるはずもなく、まだ様子見として病院にも行っていない。
こういうのは気にしなくなった時に突然直るもんだと自分に言い聞かせてからもう一週間経った。
(そろそろ治ってくれや……)
繰り返し今日もそれを願う。
寝間着にしているスウェットからチームのジャージに着替え、フードを被って寮を出る。普通に眠れていた時はそう無かったことだが、朝ウォーミングアップの為に軽くランニングをしに行ってからチームの練習場で足を慣らす事がこの二週間で日課になりつつある。
眠れていないせいか身体の動きは自分でもはっきりと分かるほど良くなく、それを感じ取ってかサッカーボールも最近は懐いてくれない。募る一方の苛立ちを振り払うようにいつものランニングコースを真田は全力疾走で走り抜けた。
真田も一室を借りているチームの寮敷地を抜け、練習場を越えたあたりで折り返し地点とし、寮の玄関まで戻ってくるコースが一周約一キロ程度。それを三周半した時、練習場に現れた姿に真田はじとりと浮かんだ汗を腕で拭いながら、コートへ足を伸ばした。
「先輩早いっすね」
朝日を浴びるそのシルエットが逆光気味でその姿の判別に近くまで寄り目を細めて定めたが、思えばビッグ大阪で朝が早いと言えば浮かぶのはこの男しか居ないことを思い出す。
「貴大こそ珍しいじゃないか、こんな朝早くに」
この男、比護隆佑は一年ほど前からチームの寮を出て近くで一人暮らしをしている。それで生活が成り立つほどビッグ大阪の選手としてと、比護隆佑という一人の選手としても人気があるという事だ。
「最近はオレも先輩を倣って朝練に励もうと思いまして。先輩が怪我してる間にそのポジションオレがもらいますから」
「そりゃあ良い心がけだな。オレもおちおち休んでられん」
「ですやろ」
ノワール東京から移籍してきた比護は、大阪という地で生活しながら決して関西弁に呑まれることはなく、敬語を使いながらイントネーションが完全に関西のものである真田に対し標準語が際立つ。仲間が揃っている場だと余計にそう感じるのだが、なぜか比護の標準語は自分の耳に優しく通るのはオレの内密事項だ。
「お前最近あまり調子が良くないようじゃないか、どうかしたのか?」
そう言いながら足元で転がしていたボールを軽いパスで渡してきた比護に、真田はロングシュートを決めるべく思い切りボールを蹴り上げた。
「昨日の練習試合の事ゆうとるんですか?」
「まぁ主にはそうだな」
ガゥンッ―――………
しかしそのボールは派手な音を立ててゴールポストに当たり、コロコロと途中まで戻ってくる。
「お前はキーパーも居ないゴールを外す奴じゃないだろう」
こんなに調子は狂ってしまっているのか。そう一番驚いたのは真田本人である。
(あかん………)
昨日は強豪校と言われる阪南大学サッカー部との練習試合があり、怪我をしていた比護は大事を取ってフォワードには真田が出場していた。しかしストライカーとしての真田はその試合で本領を発揮する事はなかった。
相手は関西では名の知れる強豪大学ではあったが、そこはプロチームとして負けるわけにもいかず、結果としては勝利で試合を収めた。真田の動きは酷いものだった。パスコースもシュートもうまくいかない。その動きを比護は見ていたのだ。
「まだちょっと疲れ引きずってるだけです……。あんな緊迫した場面での試合やったしな、比護さんがそんな気にする事やないですよ」
「今のお前にポジションを奪われる気がしないと言ってるんだ」
比護さんの言うことは分かる。今のオレではどう足掻いても比護さんにはかなわない。
丁度目線の先まで昇ってきた日が眩しくて、目を軽く伏せて視線を地に落とした。視界の右隅にみっともなく転がったサッカーボールが映る。
「そんな、……悠長な事言ってるとすぐですよ、あなたがスタメンに入らなくなるのも」
(オレの足はあれを追いかけていけばいいのに。それだけなのに)
「貴大は嘘を隠すのが下手だな」
笑うでもなく、ただ淡々とそう言った比護に真田は驚いたように顔を跳ね上げた。
「お前がオレを『あなた』なんて呼ぶときはなにか隠したい思いがある事がある時だろう」
自分でも気付いていなかったその変な癖が、そう指摘をされればそうかもしれないと思うほど自分の中で思い当たる節はあった。
「それがオレに対してだけか、それとも自分に対してもなのかはオレには分からないがな。サッカーがろくに出来ない奴を置いておくほどプロチームは優しくないぞ」
分かってる。
分かってる分かってる分かってる。
叫ぶ心の声に合わせて揺れる視界の中で弁解の言葉はいくつ思い浮かべてもどれも惨めなだけで、口から出てこない。
(本文冒頭)